ヒスイは何事もなかったかのように目を覚ました。
(私・・・あのあと寝ちゃったんだ・・・)
ヒスイは上体を起こすとすぐ昨日の路地での出来事を思い出した。
(そうだ・・・私、お兄ちゃんのこと殴っちゃったんだっけ・・・)
三度目の逃走をしたヒスイはまっすぐアジトに戻った。
ベッドの上で百面相をしながらコハクの事を考えているうちに眠り込んでしまったのだった。
(・・・何でお兄ちゃんあんなこと・・・。ううん。あれは別に特別な意味なんて・・・)
ヒスイは自分の唇に軽く指で触れた。夕べからそのことで頭が一杯だった。
「べ・・・別に今更意識するのもおかしいよね。お兄ちゃんとのキスなんて初めてって訳じゃないんだから・・・」
ヒスイは自分に言い聞かせるように声に出して言った。
(・・・やっぱり兄妹じゃないのかな・・・。だからあんなこと・・・・)
ヒスイの口元が自然に緩む・・・。
「はっ!!私ってば何考えてるの!?そんなんだからお兄ちゃんとギクシャクしちゃうのよ!!」
ヒスイはポカッと自分の頭を殴った。
「落ち着かなきゃ。とにかく確証が欲しい。なんとかして確かめたい・・・けど、お兄ちゃんにいきなり聞くのは恥かしすぎる・・・。まるで兄妹じゃないことを期待しているみたいで・・・」


「それにたぶん、答えてくれない気が・・・するんだ・・・」


ヒスイは窓から外の景色を眺めた。
見えるのは空と森の木々だけだが、朝露の香りと小鳥のさえずりが心地良かった。
ヒスイは深く息を吸い込んだ。
「そうだ!!」
ヒスイは突然閃いた。
「家に帰れば何か手がかりがあるかも・・・!」
ヒスイはここ最近読んだ本のなかで移動の術が記されていたものを思い出した。
「意外と簡単な魔法陣でいいのよね。試してみよう」
ヒスイは善は急げとばかりに適当な服に着替えた。


『ちょっとでかけます。すぐ戻ります。・・・たぶん。  ヒスイ』


ヒスイは机の上のメモ帳にすばやくそう書き付けると、勢いよくドアを閉めて出て行った。
アジトのまわりには草木の生えていない場所もいくつかあった。
コハクとオニキスが剣を交えていた場所もそうだった。
ヒスイは一番目立たないアジトの裏手の空地を選んだ。
そこに拾ってきた木の枝でスラスラと魔法陣を描く・・・。
「えっと・・・多分こんなカンジだったと思うのよね。で、この真ん中に立って・・・イメージする・・・。私の・・・家。お兄ちゃんと暮らした大切な思い出のいっぱい詰まった家・・・」
ヒスイはありったけの想像力を駆使して自分の家を思い描いた。

「・・・旅立て!!」

足元の魔法陣から風が巻き起こった。
小さな台風のように激しく風が渦巻く中心でヒスイの姿がフッと消えた。



驚くほどあっさりと成功した。ヒスイは瞬時にして思い描いたとおりの家の前に立った。
(・・・そう。ここが私の家・・・)
家は確かにそこにあった。赤い屋根と白い壁。大きな窓が沢山並んでいる横に長い建物だ。
ガーネットの屋敷に比べれば小さいかもしれないが、コハクと二人での生活では充分すぎる程立派な家だった。
実はヒスイはこの家の一部しか知らかった。
コハクと二人で使っていた部屋はせいぜい数部屋で、それ以上は全く必要がなかったし、ヒスイは何故かこの家で独りになるのが怖かった為、いつもコハクの後を付いてまわっていたのだった。
「もうちょっと探究心ってやつを持つべきだったわね・・・」
ヒスイはポケットから鍵の束を取り出すと正面玄関の扉を開けた。
「自分の家が苦手・・・って何かおかしいよね・・・」
そう自嘲しながら屋敷の中へ入った。


咄嗟の閃きで行動を起こしたことをヒスイは少し後悔していた。
神の加護を求めるように胸のロザリオを強く握った。そして18年間未知だった屋敷の奥を目指した。
「・・・それにしても静かね。家の外にも人の気配がない」
(ここにいた頃、外は結構賑やかだった。小さな子供の笑い声がして、井戸端会議のおばさん達がいつも楽しそうにおしゃべりしてたっけ)
人の良い村人達・・・ヒスイの髪を珍しがることもなく普通に接してくれた。
ここでの生活はとても穏やかだった。
ヒスイはしばしの間思い出に浸った。
「その分、余所者にはひどい目に合わされたっけ」
ヒスイは幼い頃、村の外からやってきた輩に誘拐され、髪を切られたことがあった。
「あのとき・・・お兄ちゃんがすごい剣幕で飛び込んできて・・・。あれ??」
頭のなかで流れる思い出の映像・・・。
(あの時お兄ちゃんって・・・今と変わらない姿じゃなかった??それっておかしくない?だってあの時、私まだ5歳だよ?お兄ちゃんって・・・何歳なの!?まさかひょっとして凄い若作りのオジサン!?)


「何で今まで気が付かなかったんだろ。お兄ちゃんと離れることなんてなかったもんね・・・改めてそんなこと考えたこともなかった・・・」
ヒスイは自分に呆れた。
「それともまた、私の知らないところで私の記憶がいじられているとか・・・。まさかね。でも・・・ありえないことじゃ・・・ないか」
ヒスイは腕を組んで考えた。
カーネリアンから話を聞いてから、父親と兄が自分に対してしようとしていることについて度々考えるようになった。
人類最強とまで言われた父のすることだ。想像の範疇を超えるだろう・・・。
多分それくらいのこと簡単にやってのける・・・。
ヒスイは思った。
顔も知らない父親だが。


「・・・なんか・・・奥へ行けば行くほどアヤシイんですけど・・・」
ヒスイは大きな声で独り言を言った。
窓があるのに薄暗い・・・。ヒスイを取り巻く空気はいつの間にかじめじめと黴臭いものに変わっていた。
そしてヒスイは妙に豪華な作りの真っ黒な扉の前に立った。
緊張のあまりコグリと唾を飲む。そのあと意を決したように扉を少し開けて隙間から中の様子を伺った。
「・・・これは・・・」
部屋の床いっぱいに広がる大きな魔法陣・・・。
とても複雑な構造になっていて今のヒスイには何の魔法陣か全くわからなかった。
ヒスイは背中を壁に張り付けながら部屋の中に入った。
「何か、ないかな?お父さんの日記とか・・・研究書とか・・・」
魔法陣の向こう側に大きな机があった。その上には見たこともない表紙の古びた本が山積みになっていた。
「向こうに・・・行きたい・・・」
ヒスイは足元いっぱいに広がる魔法陣を見下ろした。
有効な魔法陣ならば線が光を発しているはずだが、これは全く光っていない・・・。
使用済みなのか、未完成なのか、それすらもわからなかったが、上を通っても大丈夫そうだ。
ヒスイは念の為円の中心を避けながら机のほうに向かった。


そこでまず広がったままのノートを発見した。
そこには決して達筆とは言えない字で『禁忌』『強き者』『金色の』と落書きのように走り書きがしてあった。
最後の、金色という言葉がコハクの髪を連想させたが、それ以上はわからなかった。
「とりあえず・・・ここにある本で役に立ちそうなものを持っていこう」
ヒスイはここに長居したくなかった。
「何か・・・でそう、ここ」
ヒスイは怯えた顔でそう呟いて、手早くそこにあった本を何冊か取った。
「熱っ!!」
ヒスイは最後に取った白い装丁の本を落とした。
「何?この本?」
ヒスイはしゃがみ込んで足元に落ちた本のタイトルを読んだ。
「・・・聖書・・・」
「・・・そうかぁ・・・。持てないんだ。聖書」
ヒスイは火傷して赤くなった指をぎゅっと握り締めた。
「ん・・・?あれ?これ移動の・・・?」
ヒスイが本から目をあげると机の下の壁に小さな魔法陣が見えた。
床に膝をついてよく見てみると、先程ヒスイが使用したものとほぼ同じ形をしていた。
けれどもこれはイメージした場所に飛ぶという、手軽だが失敗する可能性も高いヒスイのものとは違って、ちゃんと行き先が指定されたもののようだった。
「へぇ・・・どれどれ・・・」
ヒスイは何も考えず、反射的にその魔法陣に触れてしまった。
するとヒスイは魔法陣に吸い込まれるように忽然と姿を消した。



「ヒスイがいない・・・」
コハクが茫然自失した表情でカーネリアンのところへやってきた。
「何だって?」
カーネリアンはコハクが握りしめているヒスイのメモを奪い取って一読するとにやにやと笑って言った。
「夕べ聞きそびれちゃっだけどさ、アンタ・・・昼間ヒスイに何かしただろ」

ぎくっ。

「・・・はい。しました」
コハクはしゅんとして答えた。ヒスイに叩かれた頬が疼く・・・。
「ついに兄貴のメッキが剥がれたね。アンタ」
カーネリアンは同情の笑みを浮かべた。
「とにかく!後を追いますっ!!」
コハクは二階の窓から身を乗り出した。
「待ちな!!力は使うな!!少しでもここに長く留まりたいなら!!」
カーネリアンはコハクを怒鳴りつけた。
「でも・・・・」
「でもも糞もあるかっ!ちょっと落ち着きな・・・。危険はないんだろ?」
「たぶん・・・」
「行き先に心当たりは?」
「・・・あります」
「それなら私も行くよ。アンタが馬鹿な真似をしないようにね!!」



「ここ・・・どこ?」
さっきよりも更に黴臭い空気。禍々しい気配・・・。
真っ暗な部屋・・・明かりは燭台のローソクの火だけだった。
それが点々と壁に沿って並んでいてかろうじて中の様子がわかった。
(なんで誰もいない部屋に火が灯ってるの・・・?気味が悪い・・・)
「な・・・にこれ・・・?黒魔術??」
部屋には黒魔術で使われる道具が色々と置いてあった。
香木・・・聖水・・・護符・・・血のべっとりとついたナイフ・・・。
「シャレコウベまである・・・」
ヒスイは気分が悪くなって口を押さえた。
「お父さん・・・何をしていたの・・・?」
父は光の精霊を使役して悪魔を伏服する優秀な悪魔祓いだったとコハクから聞いていた。
カーネリアンも人類最強のエクソシストと言っていた。
「それが・・・なぜ・・・黒魔術を?まさか・・・。この紋様と関係が・・・」
ヒスイは服の上から紋様のある場所に触れ身震いした。
自分が半分は悪魔と言われる生き物だということも忘れて。
「ここ・・・凄く嫌・・・。早くでよう」
ヒスイは逃げるように魔法陣の場所を目指した。
「きゃっ!」
ヒスイはぬるりとしたものに足を取られ体勢を崩した。
「何?なんかぬるっとして・・・」
ヒスイは視線を落とした。


「!!きやあぁぁっ!!」


ヒスイは悲鳴を上げた。そこには大きな血だまりがあった。
「何なのよっ!!これっ!」
ヒスイはだんだん恐怖が未知への怒りに変わってきた。
「もうっ!!わけわかんないっ!!」
大声で血だまりに向かって叫んだ。
「・・・あれ?でも・・・この血の臭い・・・。どこかで・・・」
落ち着いて考えてみると、この部屋のなかでこの血の臭いだけは嫌な感じがしない。
一番リアルで生々しいのに・・・だ。
「それって私がヴァンピールだから?それともこの血が・・・私の知っている誰かの・・・お兄ちゃんのもの・・・だから・・・?」
ドクン・・・と鈍く音をたててヒスイの胸が鳴った。
もしそれがコハクの血だとして、過去にここで何があったか・・・考えたくもなかった。
湧きあがる悪い想像を断ち切るようにヒスイは血だまりから視線を逸らそうとしたが、ふとその中に金色の淡い光が点々とあることに気が付いた。
ヒスイは血だまりの中を歩いてゆき、そのなかの一つを拾いあげた。
(金色の・・・羽根・・・?)
「痛いっ!!」
今まで触ったものの中で一番の痛みだった。
「い・・・痛い・・・」
羽根を離したあともしばらく痛みが引かなかった。
聖書の時よりひどい。指先が焼けただれている。
(何よこれ・・・まさか・・・天使の羽根とかってやつじゃないでしょうね・・・)
ヒスイは血だまりの中にバラバラと散った羽根を見た。引きちぎられた羽根と・・・流れ落ちた血。
「・・・どう考えても明るく連想するのは無理だわ。もういこう」
ヒスイは今度こそ足元に注意しながら魔法陣に触れた。


「なんか収穫あったのかな・・・。怖い思いしただけのような気がする・・・」
ヒスイは重そうに本を抱えて屋敷の外へ出た。
冷や汗を拭いて空を仰ぐと太陽がまだ高い位置にあった。
ヒスイはほっとした。
「でもせっかくここまできたのに手ぶらで帰るのもなぁ・・・。村の人に聞いてみようかな?お兄ちゃんのこと・・・」
ヒスイはよく人が集まっていた噴水のある広場に向かった。
ところが・・・村人が一人もいない。途中の道でも誰にも会わなかった。
(・・・おかしい)
ヒスイは眉をひそめた。
(どうして誰もいないの?とにかく知り合いのところへ・・・。知り合い?そんなのいた・・・?思い出せない・・・。この村賑やかだったけど・・・どんな人がいた・・・?)
「信じられない・・・!!ついこの間までここにいたのに近所の人の顔も思い出せないなんて!!」
ヒスイは空に向かって喚いた。
「一体何だっていうのよっ!!もう偽りだらけの世界なんてまっぴら!!」


『・・・ならば、その目で確かめてみるといい・・・。この村の真の姿を・・・』


どこからか声がした。男の声とも女の声ともつかぬ響きを持った声・・・。
「!?」
ヒスイは周囲を見渡して声の主を探したが、見つけることができなかった。
「な・・・なに?」
厚い雲が太陽を覆った。たちまち村は暗くなった。
「・・・さむい・・・」
急激に気温が下がった。ヒスイの吐く息が白い。

ヒョオオーッ・・・

ヒスイはビクッとした。
「風の音・・・よね?」
ヒスイはおそるおそる音のする方を見た。ヒスイの真上を。
「!!!」
ヒスイは声にならない悲鳴をあげた。ヒスイの頭上を黒い影が渦巻いている。
人の影のようなものが何体も集まって渦巻状になっていたのだった。

ウオオォォーッ・・・

ヒスイはどさどさとその場に本を落とした。
「死霊!?まさかこの村!!」
ヒスイは走り出した。逃げても逃げても黒い影が追ってくる。
「どうすれば・・・いいの?うわっ・・・!」
ヒスイは石畳に躓いて派手に転んだ。すぐに起き上がったが両手、両膝からだらだらと出血していた。
「いったぁ・・・」
でも、それどころじゃない。影はすぐそこまで迫っている。
ヒスイは血のついた右手で咄嗟にロザリオを握った。

その時だった。

ロザリオがまばゆい光を放った。影がズズズと後ろに引いた。


『契約は成った・・・。我、汝を守護するもの・・・。我に名を与えよ・・・』


光の中から声がする。ヒスイはこれにも驚いたが、以前コハクが言っていた事を思い出した。
(このロザリオは私に絶対必要なものだって・・・お兄ちゃん言ってた。私の一部といってもいいくらいだから肌身離さず付けているようにって・・・。それなら・・・)


『真珠』


ヒスイは迷いのない声で言った。
すると光は更に輝きを増したかと思うと、一気に凝縮し、人のカタチになった。
「・・・我が名は真珠。汝の盾となり武器となる者・・・」
「え・・・?」
ヒスイは目を大きく見開いた。そこにはヒスイより更に幼い子供の姿があった。
ヒスイが12歳ぐらいに見えるのに対してその半分・・・6歳くらいだ・・・。
子供はふわっと地上に降り立ってゆっくりと瞳をあけた。
「メノウ・・・さま?」
少し意識が混濁しているようだ。
「私はヒスイよ。あなたが・・・シンジュ?」
「・・・わあぁぁっ!!」
シンジュは両目をぱっちりあけるなり驚愕の声をあげた。
「この私が!!何故こんな子供の姿にっ!?」
そしてヒスイをキッと睨んだ。
「あなたの魔力が未熟な証拠ですよっ!!どうしてくれるんですか!!」
「そんなこといわれても・・・」
「我々精霊は主人に恵まれないとこういうことになるんですっ!!」
ヒスイはシンジュに圧倒されて反論できなかった。
(・・・何、この口うるさい精霊・・・。真っ白で綺麗だけど・・・。カンジ悪い・・・)
「・・・これでは・・・私の力の十分の一も引き出せませんね」
シンジュは大きく溜息をついた。
「とにかく・・・彼らをなんとかしないと・・・」
ヒスイは呆気に取られっぱなしだったが、そう言われて自分が死霊に囲まれている事を思い出した。
「・・・彼らはこの村の住人。あなたに危害は加えない」
シンジュは小さな体でヒスイの前に立った。
「ヒスイ様、お歳は?」
「18・・・だけど・・・」
「・・・では彼らは魂が解放されたにもかかわらず、ここから離れられない憐れな者たちです。天に還して差し上げましょう」
「そんなこと言われても・・・どうすればいいのよ・・・」
「ただ彼らの冥福を祈るだけで結構です。両手を合わせて・・・そう・・・そのまま・・・」
シンジュはヒスイの両手にもみじのような小さな手を翳した。
そこから白く穢れのない光が一直線に天へと伸びた。
光は立ち込める暗雲を貫いた。そこから光が広がる・・・。
「ヘブンズドアです。もういいですよ」
ヒスイは祈りの姿勢を解いて上を見上げた。
「あれが・・・天国への・・・扉・・・」
死霊達は扉に吸い込まれるように次々と天へ昇っていった。
「・・・18年も付き合わせちゃって、ごめんね。ありがとう・・・」
ヒスイはそう呟いて、光の中に消えてゆく死霊達を見送った。







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