紺色の空に丸く浮かぶ月。
ヒスイは地面へ腰を下ろし、泉に足を膝まで浸けた。
ここは精霊の森。
以前コハクと入った泉である。
「・・・冷たい」
気候はまだあの頃とそれほど変わらない。
けれどひとりで触れた水はとても冷たく感じた。
「・・・お兄ちゃん・・・」
(どうしよう。これから)
ヒスイは途方に暮れていた。完全に方向を見失って、気持ちばかりが焦る。
(他の方法なんて考えてなかったし・・・)
もちろん諦める気はない。とはいえヒスイは初めて絶望的な気持ちというものを味わっていた。
「・・・・・・」
涙がじんわりと込み上げてくる。
ヒスイは声をたてずに泣いた。
「・・・・・・」
背後にオニキスの気配を感じてもヒスイは振り向かなかった。
黙って足をばしゃばしゃさせている。
「・・・大丈夫だ」
オニキスはヒスイの背中に声をかけた。静かだか、力強い口調だ。
「全然大丈夫じゃないよ。もうすぐ会えると思ったのに」
あまり悲観的になることのないヒスイが、めずらしく愚痴を言った。
(・・・つけいる隙があるとすれば・・・今だな)
オニキスにふとそんな考えが浮かんだ。
(・・・だが・・・)
ヒスイの様子を窺う。意気消沈とした後ろ姿・・・。背中から寂しさが滲み出ている。
「安心しろ・・・今はまだあいつの敷いたレールの上だ」
「そう・・・なのかな」
「そうだ。必ずどこかにつながる」
「・・・うん」
「あいつのことを信じているのだろう」
「うん」
気が付けば精一杯慰めている。つけいるどころではない。
「・・・こっちを向いてみろ」
「・・・・・・」
ヒスイはゆっくりとオニキスのほうを見た。頬と瞳には涙が残っている。
オニキスは片膝をついて姿勢を低くし、ヒスイと視線の高さを揃えた。
ヒスイの瞳に映るオニキス。
何故だかとても優しげに見えた。
「・・・・・・」
オニキスは親指でそっとヒスイの涙を拭った。
「オニキス!!ここにいたのかっ!!」
カーネリアンが木々の間から血相をかえて現れた。
「大変だよ!早く城へ帰んな!!国王が・・・アンタの親父さんが・・・!!」
城はどんよりと静かだった。
悲しみの海に沈んでしまったかのように。
モルダバイト王の死。
王の容体は前々から芳しくなかった。
すでに王ぬきでの行政が確立していた為、慌ただしくなることもなく、皆、純粋に悲しみに暮れている。
ヒスイは、王とはほとんど面識がなかった。一度か二度顔を合わせただけである。
「お前は離れに戻っていろ。今後のことを考えるとあまり人目につかないほうがいい。他国に目をつけられでもしたら厄介だ」
他国の弔問客の中には、絶美と評判のオニキスの妻をひと目見ようとする不謹慎な者もいた。
王の亡骸に別れの挨拶を済ませると、ヒスイはすぐさま離れに追い返された。
オニキスはいつもと変わらず冷静だった。
表情ひとつ変えずに弔問客の相手をしている。王妃も然りだった。
気丈に振る舞っている。
「・・・どんなことがあっても人前で取り乱すことなど許されないですからね。国を背負う立場としては」
共に離れの宮殿へ引き上げたシンジュの言葉が、ヒスイの胸に重く響いた。
その夜。
さすがのヒスイも寝付くことができず、長いことバルコニーから月を見上げていた。
「・・・・・・」
オニキスは無言で部屋へ戻ってきた。
「・・・・・・」
ヒスイも無言で出迎えた。かける言葉が見つからない。
「・・・父上が死んだ」
昼間とは打って変わって、憔悴しきった様子のオニキスが口を開いた。
「・・・うん」
何と対照的なのだろう。ヒスイは父親との再会を果たしたばかり。
一方オニキスは失ったばかり。
そう思うとますます何と声をかけたらよいかわからなかった。
「・・・オレは王になる。お前は王妃だ。もうごまかしはきかない。覚悟しろ」
そう口にしたと同時に、オニキスはヒスイの唇を奪った。
甘い・・・というよりはむしろ噛みつくような痛いキスだった。
それからヒスイのドレスの肩ひもに指をかけた。
オニキスの冷たい指先がヒスイの肌に触れる・・・。
「・・・・・・」
ヒスイは瞳を伏せ、少々眉を寄せながらも抵抗はしなかった。
オニキスはヒスイの首筋に唇を押し当てながら、背中に手を回し、ドレスのファスナーを・・・下ろした。
「・・・そんなに悲しいなら、泣けばいいのに」
これまで無抵抗だったヒスイがぽつりと言った。
「・・・・・・」
オニキスの動きがぴたりと止まった。
「こんなことで気を紛らわせようとしなくたって、お父さんが死んだら悲しいに決まってる」
ヒスイはオニキスに両腕をまわした。精一杯の力でオニキスを抱きしめる・・・。
「・・・・・・」
オニキスはファスナーから手を離した。
けれど、体はそのままヒスイに預けた。
「男だからとか、大人だからとか、王様だからとか。そんなの関係ないよ。悲しいものは悲しい」
ヒスイは涙声になった。
無性に悲しい。
しかしそれは王を失ったことを嘆いているのとは違う気がした。
王をよく知らないヒスイにとっては、父親を失った痛みに耐えようとするオニキスの姿のほうが悲しく思えた。
「・・・なぜ、お前が泣く・・・」
「・・・泣きたいのに泣けないオニキスのかわり」
「・・・・・・・・・」
オニキスはヒスイの体に顔を埋めた。
ヒスイはぽろぽろと涙をこぼしながら優しくオニキスの体を包み込んだ。
(・・・オニキスはこの国の王様で、いちばん偉い人・・・なのに、どうしてこんなに儚く思えるんだろう・・・)
満月のやわらかい光が二人を包み込んでいる。
悲しみのあまり荒んでいたオニキスもヒスイと月の光に癒され、次第に落ち着きを取り戻していった。
(・・・このまま・・・離れたく・・・ない)
オニキスは強くそう願った。
ヒスイから離れてしまったら、その途端、再び深い悲しみに襲われる・・・そんな気さえした。
ヒスイが息を吸い込んだ。
微かに肩が動いた。
(・・・レクイエム・・・か・・・)
ヒスイは歌った。鎮魂歌を。
オニキスは耳を傾けた。
ヒスイの腕の中も、歌声も、たとえようもなく心地良い。
心も体もヒスイにゆだねて、オニキスは瞳を閉じた。
ヒスイの歌声は、しっとりと優しくモルダバイト城に響き渡り、悲しみに暮れる人々の心をほんの少しだけ楽にした――
(王妃かぁ・・・。ニセモノにはさすがに荷が重いわね。ごまかしがきかないっていってたもんね。あの言葉はたぶん本当だ)
王立図書博物館の入場手続きのように、夫婦の証が必要な場面はこれからいくらでも出てくるだろう。
ヒスイにもそれは理解できた。
オニキスは眠っている。
ヒスイはそっと部屋を出た。
オニキスを起こさないように細心の注意を払いながら。
「・・・シンジュ・・・」
外の廊下ではシンジュが待っていた。
「こちらの仕事はだいたいカタがつきました」
「そう。お疲れ様」
「・・・そろそろ潮時かと」
シンジュが進言した。
「うん。そうしようと思ってた。だけどシンジュはここに残ってもいいんだよ?みんなに必要とされているし・・・」
「そんなことできるわけがないでしょう。私はあなたの魔石ですよ?」
「あ・・・そっか」
石に封じられているシンジュ。主人と離れれば離れるほど石の拘束力が高まり、外の世界にはいられなくなる・・・。
「ごめんね。天職なのに」
「何言ってるんですか。魔石が主人と共にあるのは至極当然のことです」
シンジュは意外にも割り切りが良かった。本当に大切なもの以外は切り捨てる勇気を持っている。
城の仕事はきっちり終わらせ、もはや未練はないようだ。
「・・・ありがと」
ヒスイとシンジュは誰にも行き先を告げずに、城から忽然と姿を消した。
『・・・さよなら。元気でね』
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