第1話 2人の息子
昇りたての陽光が、透明な輝きで世界を照らしていく。空は夜の闇色から昼の紺碧へと色をかえ、大地を渡るやわらかな風は可愛らしい小鳥のさえずりを運ぶ。
初夏の爽やかな大気は、全ての生命に朝の訪れを告げていた。
「じゃあ、お兄ちゃん、サルファー、行ってくるね? ジストのことよろしく」
玄関にて、見送ってくれる二人に笑みを浮かべながらそう言ったのはヒスイ。年月を重ねても一切のくすみを見せない美しい銀色の髪が、開け放たれた扉から舞い込む風にさらりとすくわれる。
「本当に送っていかなくて平気?」
そんなヒスイを、言葉の通りに菫色の瞳を少し不安げに陰らせ見つめるのは、もちろんコハク。同じく風にすくわれる金色の髪の毛を見上げ、ヒスイは大きくうなずいた。
「大丈夫。だって一人じゃないのよ? スピネルだっているし、途中まで迎えにきてくれるし」
ぽんぽん、とお腹を撫でる。スピネル、未だヒスイのお腹の中から出てこようとしない二人の子供だ。ちなみに、サルファーとジストとスピネルは三つ子の兄弟。
「んー……そうだね。なら安心かな」
「うんっ!」
やっと笑顔をこぼし頭を撫でてくれるコハクに、ヒスイは満足気に再びうなずいた。
そんなヒスイの宝珠のような緑色の瞳が、決して自分を見ようとせずただコハクにべったりひっついているサルファーをとらえる。最愛のコハクと同じ輝くばかりの金髪に、自分から受け継いだであろう緑色の瞳を持つ息子。
きっとヒスイに見られていることには気づいているのだろうが、意地でも視線を合わせようとしない態度に、当然かちんとくるわけで。
「サルファー」
呼びかけても無反応。
「サルファーってばっ! いってらっしゃいくらい言ってよねっ!」
頬を怒りでかすかに上気させながら大声を張り上げるヒスイに対し、サルファーはさも欝陶しげに鼻を鳴らすとそんなヒスイを一蹴する。
「そんなこと言ってる暇があるんならさっさと行けば? 足短いんだし。着く頃には日が暮れるぞ」
更に顔を背ける動きにあわせ、右耳につけた銀十字のピアスが揺れた。
「なっ! それが母親に対して言う台詞っ!? それにっ! 足が短いんじゃなくて、背が低いだけよっ!」
「バカなやつだな。チビな上に短いって言ってるんだよ」
ああ言えばこう言う状態。もうヒスイは先程より真っ赤に顔を染めながら、口をぱくぱくさせるばかり。
二人のそんな様子を見て苦笑いを浮かべているコハクをきっと睨みつけ、ヒスイはその勢いのままに詰め寄った。
「もーっ! お兄ちゃんっ! 笑ってないで何とか言ってよっ!」
「僕が言ってもきかないんだよ」
「それでもっ! サルファーはお兄ちゃんの言うことしか聞かないんだからっ!」
「はいはい、そんなに怒らないの」
背伸びをして自分の主張を繰り広げていたヒスイの額に優しくキスを落とし、その体を抱きよせる。
「せっかくの可愛いヒスイが台無しだよ」
きゅっと抱きしめられれば、あれだけいらいらしていた感情がゆっくりとほどけていく。いつも自分を一番優しく包み込んでくれるコハクを間近に感じ、ヒスイはその気持ちがだんだんと鎮まっていくのが分かった。
「うん……」
「はい、いい子だね。じゃあ行っておいで? 帰りは迎えに行くから」
その言葉に、ヒスイは腕の中からひょこっと顔をあげる。
「迎えに来てくれるの?」
「当たり前でしょ?」
コハクの即答に、ヒスイは光を生むかのようなとびきりの笑みを広げる。そしていつものようにキスのおねだり。
二人が離れるときの、恒例行事。
だが。
「父さん、今日は本を読んでくれる約束でしょ?」
寸前のところ、絶妙なタイミングでコハクの腕をひっぱり、ヒスイから引き剥がした。そしてそのままリビングへと引きずっていく。
ここでやっとヒスイを見たサルファーは、勝ち誇った笑みを不敵に光らせた。
不覚にも唖然としてしまっていたヒスイ。そんなサルファーの可愛げのない笑みに我に返ると、またしても怒り心頭。眉を吊り上げ思いっきりそっぽを向くと。
「いってきますっ!!」
吐き捨てるように叫びながら、外へと飛び出していく。
「い、いってらっしゃーい」
コハクの言葉は、乱暴に閉められた扉の音に虚しくかき消された。
「んー……」
南側いっぱいに広がる窓から差し込む朝日は、いくら木々の緑を透していても、レースのカーテンに受けとめられていても、今まで深い眠りの中にあった者にはそりゃあまばゆいばかり。まだまだまどろんでいたいベッドの主は、そんな光の洪水から逃れようと、ふかふかの枕に顔を埋める。
再び安息の夜色におおわれた視界に安堵したのも束の間、今度はけたたましいまでに鳴り響く目覚まし時計がその眠りをけやぶった。
朝の爽やかさもだいなしである。
だが、ベッドの主はしぶとい。別の枕をかぶり、何とかその音がやむまでやりすごそうとするが、いつまでたっても一向にやむ気配を見せないそれに、だがしかし動こうとはせずに事態の収拾をはかろうとする。
いわゆる、他力本願。
「うー……サルファー……止めてよぉー……」
と、ここで、まるで嫌がらせをするようにベルの音がけたたましさを増す。
「サ、ル、ファーっ!」
もう一度名前を呼べど、無反応。
「も、うるさーーーいっ!!」
ついにしびれをきらし、今まで眠っていたのが嘘のように瞬時に飛び起きると、ふりあげた手の勢いのまま目覚まし時計を叩いた。
ぴたっとやむベルの音。その余韻が消えると耳に心地よく響いてくるのは、小鳥のさえずりと木立をいく風の音。
しばらーく微動だにせずぼーっとしていると、やっと目覚めの段階に入ったのか、大きなあくびをしながらのびをする。
起きたのはアメジスト、八歳。通称ジスト。
朝日にきらりと光る銀色の髪にはこれでもかと寝癖がつき、深く澄んだ菫色の大きな瞳はにじんだ涙に潤んでいた。
そんな目をこしこしこすり隣のベッドを見ると、いるはずの姿がないことにやっと気づく。
「……サルファー?」
部屋内を見渡すが、姿なし。
「もう起きてるのかなぁ……早起きだなぁ、サルファーは」
布団をはらい、まずはベッドを降りる。テーブルの上にはきちんと用意された今日の服。もちろん、父であるコハクが用意したものだ。
何のためらいもなくそれに手をのばし、パジャマを脱ぎ捨てる。起きたとはいえ、未だぽやぽやしているジストの着替えはすぐには終わらず、きちんとボタンを掛け終えるまでかなりの時間を要した。
ここまで時間が経ってしまうと空腹は頂点に達し、そのおかげで目も完全に覚め、頭はすっきり冴え渡る。今日は果たしてどんな朝食か、期待に胸を膨らませジストは軽い足取りで階下へと降りていった。
「おっはよーっ! ヒスイ父ちゃんサルファースピネルーっ!!」
これでもかと人懐こい笑顔をふりまきリビングへと続く扉を開け放つジストを迎えるのは、同じような暖かい笑顔や優しい声である、はずなのだが。
今、そこにあるのは動き一つない静寂だった。
「あ、あれ?」
部屋を出る時、ちらっと見た時計で自分が寝坊してしまったのは分かっていた。だからこそサルファーは、それ以上寝坊しないように目覚まし時計をセットしておいてくれたんだと思う。
たぶん朝食は済んでいると思われる時間。でも皆は、毎日のように寝坊をやらかすジストが起きてくるのを、このリビングで必ず待っていてくれるのだが。
まず視線を走らせるのは、季節柄、今は使っていない暖炉の前に置いてあるパウダービーズのクッション。母であるヒスイのお気に入り。息子と同じようにコハクが選んだ服を着て、だいたい本を読んでいることが多いのだが、座ったあとは確かにあれど姿がない。ヒスイがいなければ、スピネルも同様。
「……ヒスイ? スピネル?」
次に見るのはキッチン。そこにはきちんとエプロンを身につけ、楽しそうに鼻歌を歌いながら後片付けや、午後のおやつの準備をしている父・コハクの姿があるはずなのだが、もうすでに片付け終わった食器達が、きらりと水滴を光らせていた。
「父ちゃん……?」
コハクの姿がないとなると、そのコハクにいつもべったりしているサルファーの姿も当然なく、いつも愛用しているスケッチブックと色鉛筆がそのテーブルの上、静かにたたずんでいた。
「サルファー……皆、どこ行ったのーっ!?」
まさにお手上げ。
降参するように両手を突き上げると同時に、左耳につけた金十字のピアスが七色に反射しながら揺れた。
「うぅー……」
四人がこのリビングにいないのは事実であるのだから、空腹に集中力が途切れそうながらも必死で考えをめぐらせる。
今日、どっかでかける予定だったっけ。それとも誰か来たのかな。昨日、父ちゃん何か言ってたっけ。
腕を組み、うんうんうなってはみるもののやはり何も頭には浮かんでこない。そうなれば、やることはただ一つ。
ジストはきびすを返すとまた再び二階へと駆け上がって行った。
自分とサルファーの部屋を通り越し、飛び込んだのは両親の部屋。そしてそのまま全力でかけより、開け放ったのはヒスイのクローゼット。
そこにはコハクが厳選した洋服が、カジュアルなものから煌びやかなドレスまでがきちんと整頓され、ずらーっと並べられている。それらを素早く確認し、鞄やアクセサリーの類まで目を通し終えたところでジストの動きがやっとぴたっと止まる。
「ない」
悲壮な顔をし、ついにはその場にぺたんと座り込んでしまう。
「お出かけ用の洋服が一コなーーーいっ!」
自他共に認める“超”マザコンなジスト。至極当然のようにヒスイの洋服は全て頭の中に入っている。鞄やアクセサリーはもちろんのこと、靴や、果ては下着まで全て把握済みである。
「ヒスイがいないーっ! どこ行っちゃったのーっ! 父ちゃんとサルファーもどこーっ!」
と、ここで何やら下、外から楽しげな笑い声がかすかにジストの耳に届けられる。それをすかさず察知し、素早く窓際に駆け寄りカーテンを開け、ガラスに鼻がつぶれる程に顔をひっつけると、何かがきらりと光ったのが見えた。
「いたっ!!」
もう寒さはない初夏の候、だが決して暑くもないぽかぽか陽気に誘われて、コハクとサルファーは家のすぐ前にある一本の立派な巨木の根元に仲良く座っていた。その脇には、書斎から持ち出した何冊かの本が積み重なっている。約束通り、どうやらコハクがサルファーに本を読んであげている最中のようだ。
そんなコハクに、サルファーは先程ヒスイに向けていた表情とはうってかわってのご機嫌顔。口元には年相応な笑みが浮かんでいる。
誰よりも尊敬し、大好きな父親を独り占めしていることが、何よりもサルファーの充実感にも似た満足度を高めているようだ。
もちろん、腕にぴたっと張りつきにこにこしているサルファーを見れば、コハクとて嬉しいことこの上ない。可愛い息子が聞き逃すことのないよう、一語一語丁寧に物語を読み上げていた。
「ねぇ、父さん」
物語が一つ終わったところで、サルファーが見上げながら声をかける。
「ん?」
「あの、ね? 色鉛筆、全部短くなっちゃったんだ……」
「えっ!? もうっ!?」
「う、うん……」
驚きで素っ頓狂な声をあげたコハクに、サルファーは少し申し訳なさげに瞳をふせる。だが、コハクのそんな驚きはもっともなところで、ついこの間、新しい色鉛筆一式を買ってあげたばかりなのだ。
絵を描くのが大好きなサルファー。子供が興味を持ち、熱心に取り組めるものなら、それ相応のものを与えてやりたいというのがコハクとヒスイの考え。そのためのものであれば、惜しみなく与えるのは当たり前のこと。
コハクは未だちょっと肩を落としてうつむいているサルファーの、自分と全く同じ感触を持つ髪の毛を優しく撫でた。
「じゃあ、後で一緒に買いにいこうか」
がばっと瞬時にサルファーの顔があがる。
「ホントっ!?」
「もちろん。ジストが起きたら一緒に行こう」
「ありがとうっ!」
「父ちゃんっ!!」
物凄い勢いで玄関の扉が開けられ、叫びながら出てきたのはジスト。
「ジストおはよー」
にっこりと天使の微笑みにて手をふりながら、もう一人の息子に軽やかな挨拶をする。
「ジスト寝すぎー」
そんなサルファーのからかいにも今は反論することができず、今にも泣きそうな顔を二人に向けてきた。
思わず首をかしげる金髪親子。
「と、う、ちゃーんっ!!」
まさに猪突猛進。
ジストが一心不乱にコハクに飛び込んでいくものだから。
「えっ!? ちょ、ちょっとジスト、待っ……っ!」
その衝撃ははかりしれず。
ばきっ!
「何の音?」
サルファーがのんきに言った。
「ねぇ父ちゃんっ! ヒスイがいないヒスイがいないっ! ヒスイどこ行ったのーっ!?」
いつもならすぐにでもきちんと答えをくれるコハクなのだが、一向に言葉は発せられず、ぐりぐりとその胸元に顔をこすりつけていたジストも、さすがに「あれ?」と我に返る。
「父ちゃん……?」
そこにあったのは、あまりの衝撃に目を回しながら気絶した父親の姿。ジスト、一気に青ざめる。
「うわーっ! 父ちゃんごめーんっ!」
そのジストの叫びに、枝にとまっていた小鳥が一斉に大空へと飛び立った。
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