「気分はどうですか?」
高貴な出で立ちの天使がコハクを見下ろした。
金色の翼が六枚・・・。
熾天使セラフィムと同じ、最上級クラスに属する智天使ケルビム。
垂れ目気味の甘い顔立ち・・・少々軟派な感じのする二枚目だが、コハクに対する口調はとても堅い。
「・・・・・・」
コハクは動けない。
ケルビムを見上げることもせず、床に膝をつき、苦しそうに肩で息をしている。
「・・・苦しいでしょう。地上の瘴気に慣れたあなたには。けれどここはかつてのあなたの住処ですよ、セラフィム」
「・・・・・・」
「感じませんか?ここは聖なる気で満ちている。あなたのね」
「・・・・・・」
今のコハクにとってはむせ返るような空気だった。思うように息ができない。
「愚かな・・・。二十年前、私の忠告を無視して地上に留まり、幾度となく悪魔と交わった結果がこれです。しばらくは動けないと思いますが、念のため・・・」
と、言ってケルビムはコハクの手首・足首に手のひらを翳した。
コハクは魔法の鎖で拘束され、手足の自由を失った。
本来なら重さはないはずなのに、この鎖は先に錘がついており、嫌がらせのように重かった。
「・・・僕を・・・」
コハクが口を開く。ケルビムはコハクの口元に耳を寄せた。勝ち誇った笑みを浮かべて。
「・・・堕とせ」
「裁きを受けて堕天使になると?」
ケルビムはコハクの顔を覗き込んだ。コハクの瞳には何の迷いも感じられない。
「あり得ませんね」
ケルビムは嘲笑った。
「熾天使はあなたひとりしかいない。たとえあなたがどんなに罪を重ねようと、堕天使になどするものですか」
「・・・・・・」
コハクは内心舌打ちをした。
ここでケルビムに裁かれ、堕天使という闇の生き物になれば、すぐにでも地上に戻れるのだ。
(・・・恐らくケルビムはそれを知っている。そのうえで、僕を堕天使にしないつもりだ。これが一番手っ取り早い方法なんだけど・・・やっぱりだめか・・・)
「・・・今、あなたの力は全盛期の三分の一にまで落ちている。まずは失った翼を再生して・・・」
嘲笑から一転、いたわるような口調だった。
「余計なことを・・・するな」
コハクは忌々しそうに、息と共に吐き出した。頭は働くが、声を出すのはつらい状態だった。
呼吸をするだけで喉が焼けるように熱い・・・。
「それは愛しい彼女に触れることができなくなるからでしょう?それならば私に考えがあります。・・・ひとつ言っておきますが、私はあなたの敵ではない。悪いようにはしません」
「・・・ヒスイには手をだすな」
コハクはケルビムを睨んだ。震え上がるほど美しく冷たい表情だった。
「・・・ここでは翼を出していた方がいい。少しは楽になりますよ」
そう言い残してケルビムは飛び去った。天界の空へと。



「・・・やっと慣れてきた・・・」
コハクは大きく息を吸った。もう痛みはない。
雲の上に建つ巨大な神殿で軟禁されて、ちょうど一週間後のことだった。
10m以上ある高い天井。それを支える太い石柱が無数に並び、部屋の形を作っている
。壁は、ない。品のいい彫刻の施された石柱の間からは、青空が良く見えた。
空以外は真っ白だ。建物全体が白く、家具もすべて白い。
所々に置かれた観葉植物だけが、純白の世界に色を与えていた。
雲の上に存在するだけあって、見える景色といえば、空と雲だけである。
コハクは退屈な景色を見ながら、物思いに耽っていた。
「さて、どうするか」
地上に戻る方法はいくつか・・・ある。
(だけど最終的には堕天使になるしかない)
コハクは世界の秩序をおさらいした。現在、神というものは存在しない。
(天使は悪魔に対して絶対的な力をもつけど、個体数でいったら悪魔のほうが十倍多い。天使と違って地上の瘴気も平気だし、積極的に人間と交わるから、半魔の・・・天使の力が及ばない生き物も増えてきている)
「そういう時代なんだ」
コハクは気強い口調で言った。
(メノウ様以来、たいした悪魔祓いも出ないし、大概の悪魔にとっては良い時代だろう)
「やっぱりこれからの時代、悪魔のほうがお得だよね」
くすり、とコハクは肩をすくめて笑った。
「僕もヒスイと同じ側の生き物になる。そうすれば・・・今までできなかったことも、心おきなくできるように・・・ムフフ」
コハクにとっては、重い鎖も軟禁もまったく取るに足らないことだった。
脳裏に浮かぶヒスイの姿・・・そのぬくもりと声を思い出しては、美形も形無しのだらしない顔で笑う。
(ケルビムは僕を堕とさないと言った。彼の性格からすると、この先意見を変えることはまずない。こっちは諦めよう。説得するなら・・・)
コハクは顔を高く上げ、上空の何もない空間に向けて話し出した。
「トロウンズ。近くにいるんでしょ?でてきて」



「・・・・・・」

バサッ・・・。

羽音がした。
睫毛が濃く長い、整った顔・・・けれども少し地味な印象の天使がコハクの呼びかけに応えるようにして姿を現した。
座天使トロウンズ。
神の台座を運ぶ“車輪”と称され、熾天使・智天使と並ぶ上級天使。
「やあ」
垢抜けた笑顔で、コハクは挨拶をした。
「・・・・・・」
「・・・相変わらず無口だね。」
「・・・・・・」
トロウンズからは何の返答もなかったが、コハクは気にすることなく話を続けた。
「ケルビムとは上手くやってる?」
「・・・おかえり」
ワンテンポ遅れてトロウンズが答えた。ぽつりと小さな声で。
「ただいま」
「・・・セラフィム、まってた」
「うん。ごめんね」
「天使まとめるの、大変。ケルビム一人で」
「あ〜・・・」
コハクは頭を掻いた。そういえばそんな役目もあったっけ。
自分の立場というものを二十年ですっかり忘れていた。
(まだそんなものに縛られていたのか・・・ケルビムは。そこまで神に義理立てしなくてもいいと思うんだけどね・・・)
神の存在が失われて以来、コハクとケルビムは何かと対立していた。
トロウンズはその性質・・・性格上、二人の言い争いに口を挟むことはなく、いつでも中立を保っていたので、一対一のまま決着は益々つかなかった。
「僕はケルビムとは違う考えなんだ。だからここには長くいられない」
「・・・・・・」
トロウンズはまた沈黙した。
コハクはトロウンズの性格をよく理解していたので、その沈黙に自分も合わせた。
(スローテンポで話し下手だけど、僕やケルビムよりずっと心の優しい天使だ。トロウンズは)
「・・・セラフィム、髪短い」
トロウンズはじっとコハクを見て言った。
「うん。そう。切ったの。似合うでしょ?」
「・・・前のほうが・・・いい」
「そうかなぁ。こっちのほうが断然イケてると思うんだけど」
コハクは何気にショックを受けたようだった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・僕を裁いてくれないかな。この際どんな罪でもいいから」
犯した罪ならいくらでもある。神がいたらなら、今頃とっくに堕天使だ。
コハクは切々と訴えた。
「・・・だめ。セラフィムいないとケルビム悲しむ」
「・・・・・・」

はぁ〜っ。

コハクは溜息をついた。
どうやらこの方法では成果が上がりそうもない。
「・・・堕天使になったら、二度とここには戻れない」
「うん。そうだね」
「それでも・・・いい?」
「うん」
「寂しく・・・ない?」
「全然。僕にとってはね、地上に大切なものを残して今ここにいることのほうが寂しいよ」
天界に、仲間に、全く未練のないコハク。トロウンズは眉をひそめた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
どうすればいいのか考えあぐねているようだ。
「わかったよ。この話はナシだ。君には頼まないから、安心して」
トロウンズには決断できない。コハクはそうふんで、早々に話を切り上げた。
他に方法がないわけじゃない。コハクの切り替えの早さは健在だった。
「キモチ・・・変わらない?」
「うん。変わらない。僕は地上へ帰るよ」

どんな手段を使ってでもね・・・それは声には出さなかった。

「そう・・・」
トロウンズはすっかり沈んだ様子だった。
「あ!僕ね、コハクっていう名前を貰ったんだ。地上におりた時」
「・・・コハク・・・」
「うん。とても気にいってるんだ。だからこれからは名前で呼んでね」
トロウンズはこくりと頷いた。
「そうだ!君も名前を持つといい」
「名前・・・」
「そうだなぁ・・・ターコイズなんてどう?世界を取り巻く美しい空をイメージして。神と共に天空を駆けた君にぴったりの名前だと思うけど」
「ター・・・コイズ・・・」
「気に入って貰えたみたいだね」
表情の変化に乏しいトロウンズ、しかしコハクは昔からトロウンズの微かな感情を読み取ることができた。
嬉しそうにしている。
「ターコイズだと少し呼びにくいから、愛称でターコ。ん?」
「ターコ。ターコ」
コハクは繰り返した。
(微妙に馬鹿にした響きが・・・あるような・・・)
「う〜ん・・・。ターコはやめて、イズにしよう。愛称はイズ。地上におりたときはその名前を使うといいよ。僕もこれからはそう呼ぶ」
「イズ・・・」
トロウンズ・・・イズは自分を指さした。
「そう。君はイズ。」
コハクは笑顔で見守った。
「・・・コハク」
次にイズはコハクさして言った。
「うん。僕はコハク。改めてよろしくね、イズ」
「・・・お礼」
イズはコハクの両手の鎖を引きちぎった。
「・・・ありがとう」
足枷は残っているので逃げ出すことはできないが、コハクの負担は軽くなった。
(・・・どうせなら足も外してくれればいいのに。あくまで中立か、イズは。相変わらすだなぁ・・・)
コハクは苦笑いを浮かべながら、はばたくイズを見送った。



「とにかく・・・だ」
一刻も早く地上に戻らなくては。
「こうしている間にもヒスイがオニキスの毒牙に・・・」
ヒスイに毒牙をかけたのはむしろ自分のほうであるにも関わらず、コハクは、あらぬ妄想、いらぬ心配で頭がいっぱいだった。
「・・・こんなんで昔のようにケルビムと渡り合えるのかな。あいつ頭いいんだよね。本気でいかないと」
ヒスイのことになると冷静を欠いて、非常に頭が悪くなることをコハクは自分でも認識していた。
「最近すっかり馬鹿のレッテルが貼られてるし・・・」
コハクは頭を抱えた。
「馬鹿やってる場合じゃないんだけど。ホントに」
そう呟いて、足をひきずりながらベッドに向かった。
まだ一週間しか経っていないのに、ヒスイの体が恋しくてたまらなかった。
体で愛を確かめたくて、いてもたってもいられない。
「・・・したい。ヒスイと。したい。したい。したい。」
コハクは思いっきり声に出して言った。
「・・・・・・」
そして今度は黙った。
(なんか自分でも情けなくなってきた・・・。とにかく今は帰ることに集中しないと・・・)


神殿の外に広がる空も、地上と同じく時間によって色を変えた。
流れる雲が赤く染まる。
夕日が差し込み、無機質な白い空間があたたかなオレンジ色へと塗り替えられていく・・・。
コハクの好きな時間だった。
「絶景スポットなんだよね、ここ。太陽も月も星も、最高によく見える。ヒスイに見せてあげられたらいいのになぁ・・・」
コハクは自由になった両手で伸びをして、沈んでいく太陽を眺めた。


(弱気になるわけじゃないけど・・・思っていたよりも手こずるかもしれないな・・・)







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