三夜目。

「どうしたの?ヒスイ。早くこっちへおいで」
ヒスイは柱の影に体を隠し、顔だけを覗かせている。
「そ・・・それが・・・」
「!!?な・・・」
柱の裏側からおずおずとヒスイが現れた。
コハクは予想外の事態に狼狽した。
ヒスイは見えそうで見えない魅惑的なネグリジェを着ている。
これまでのヒスイとは異なったセクシー路線。
スケスケの生地が艶めかしい印象を与える・・・。
「ラリマーに昨日の服取り上げられちゃって・・・かわりにこれ着ていけって・・・。ここまでくるの恥ずかしかったよぅ・・・」
ヒスイは真っ赤な顔で小さくなっている。
「とにかくこっちへ・・・」
コハクはヒスイを抱き寄せようと手を伸ばした・・・がそのまま静止して尋ねた。
「・・・で、今日は何だって・・・?」
「・・・触っちゃだめだって」
(・・・やっぱり・・・)
コハクは伸ばしかけた手をおろした。
思わず溜息がでる。
(嫌がらせだ・・・。絶対)


「お兄ちゃん、そんなに見ないでよ・・・」
ヒスイはテーブルに着いた。どこを隠せばいいのかわからないまま、もじもじしている。
「見ないで・・・って言われても・・・。どうしても目がいっちゃうよ」
コハクは困った様に笑いながら、上着を脱いだ。
「ごめんね、これ一枚しかないんだ。とりあえず、上から着てて」
「うん」
「ちょっと残念だけど・・・似合うね、そういうのも」
(なかなかいい趣味してるよ・・・あいつ)
「やだ。こっちのほうがずっといい」
ヒスイはコハクのシャツにご満悦の様子で、くんくんと匂いを嗅いでいる。犬さながらに。
そして機嫌良く笑った。


天界の最上級天使らしからぬ生活感が漂うコハクの神殿。
柱と柱の間に紐が張ってあり、そこに掛けられた洗濯物が夜風にはたはたとなびいている。
ヒスイとコハクは向かい合わせに座って沈黙していた。


『今夜は体に触れてはいけません。話をするだけです。いいですね?』


(・・・触るな、って言われても・・・兄妹の時だって普通に触れてた訳だし・・・。これはかなり厳しいぞ。気をつけないと、習慣で触ってしまう・・・)
コハクはラリマーの注文に頭を悩ませていた。
お互い、それを意識するあまり動きが硬くなっている。
珍しくコハクの口数が減り、イマイチ会話も弾まない。
(・・・触っちゃだめなだけで、お兄ちゃんは目の前にいるのに・・・なんかしっくりいかない・・・)
「そういえば・・・お兄ちゃんに触らない日なんてなかったかもね」

離ればなれになる前は。

ヒスイはぎこちない笑顔で笑った。
「そうだね」
コハクは湧き上がる邪念を押さえるのに必死だ。
厚い面の皮を更に厚くしてヒスイに微笑みかける。
「・・・前ほどお喋りじゃないね、お兄ちゃん」
再会して思ったことをヒスイは何気なく口にした。
「うん。同じ口を使うなら、ヒスイとしてたほうがいいし・・・っと」
ぽろっと本音が出た。
「お兄ちゃんってば!」
ヒスイが冗談と決めてかかったのをいいことに、コハクもそれを冗談っぽく笑って済ませた。
「じゃあ、今夜はたくさん話をしようね」
「うんっ!」
「そうだ。丁度いい機会だから、イズも呼ぼう」
コハクはふと閃いて、そう提案した。
「え?イズ?近くにいるの?」
「うん。たぶん呼んだらすぐ来る」
コハクは神殿の外に向けて呼びかけた。
[イズ。おいで。ヒスイを紹介するから]

バサリ・・・。

神殿の外に天使が降り立った。
ジーンズにTシャツ。
手には買い物袋を提げている。
背中に羽根が生えていなければ、天使とは思えない風貌だった。
「・・・オミヤゲ」
イズは買い物袋をコハクに差し出した。
中には紅茶とお菓子が入っている。
「ありがとう」
コハクは笑顔で受け取った。
「イズは最近、地上に降りるのが好きなんだよね」

こくり。

「興味でてきた?下に」

こくり。

「・・・さぁ、中へどうぞ。お茶にしよう」
白く丸いテーブルを囲んで三人は腰かけた。
それぞれの前にはティーカップが置かれている。
イズが持ってきた紅茶。コハク御用達の紅茶専門店のものだった。
「・・・美味しい〜・・・」
ヒスイは久々にコハクのいれた紅茶を飲んで感激している。
「・・・おいしい」
ぽそっとイズもそう口にした。
「それは良かった」
ほのぼのとした空気が流れる。
コハクは天界についてヒスイに話して聞かせた。
ヒスイも、もちろんイズも黙ってコハクの話に聞き入っていた。
「ねぇ、お兄ちゃんって昔・・・」
ヒスイはラリマーが絶賛していたコハクの過去・・・機会があれば聞いてみたいと思っていた。
「ああ・・・」
コハクが瞳を伏せて短く返事をしたので、ヒスイはまずいことを聞いてしまったのかとすぐに後悔した。
「話したくないならいいよ。ラリマーが褒めてたからちょっと気になっただけだし」
「・・・何て言ってた?あいつ」
「素晴らしい天使だったって」
「一体どこが素晴らしかったんだろうね・・・何も考えてなかったんだ。あの頃は」
「え・・・?」
「神に指示されるまま、人間を裁いていた。その人間が善か悪か自分の目で確かめることもしないで」
「・・・・・・」
「地上に降りてメノウ様に仕えてからもそう。片っ端から悪魔を殺して・・・なかには“悪”じゃないものもいただろう。だけどそんなこと考えもしなかったんだ。すべての悪魔を一括りにしてた。ヒスイに殴られて初めて、“種族”が“個体の集合体”なんだってことに気付いた」
「お兄ちゃん・・・」
コハクとこういう話をするのは初めてだった。
過去の事とはいえ、コハクが自分の考えを明らかにするのは稀なことで、ヒスイは食い入るように聞いていた。
「まぁ、そんな訳で、奪った命の数は半端じゃない」
コハクの声はいつもと変わらず穏やかだった。
「・・・なんて言ったら・・・僕のこと嫌いに・・・なる?」
「ならないよ」
ヒスイが全く気後れすることなくそう答えたので、コハクはふっと笑って、席を立った。
「お茶、いれてくるね」
紅茶をいつの間にか飲み干していた。ヒスイとイズのティーカップは空だ。
ここは台所がないから不便だよ、と言って奥に引っ込むコハクを二人は見送った。

「・・・コハク。熾天使」

コハクの姿が見えなくなってから、イズが口を開いた。
「うん。知ってるよ」
「・・・熾天使しかいなかった」
「?何が?」
「人間、裁くの」
「・・・・・・」
「熾天使・・・天使のなかで一番強い。だから・・・そういう仕事、みんな熾天使・・・。他いない」
「・・・考えてなかったっていうより、考える余地がなかったってこと?」

こくり。

懸命にコハクを弁護しようとするイズ。
ヒスイは笑った。
「心配しないで。昔、何があったってお兄ちゃんのこと嫌いになんてならないから」
イズはゆっくり瞬きをしながらヒスイの言葉を聞いている。
「お兄ちゃんもわかってて聞くのよ。私が絶対お兄ちゃんのこと嫌いになれないの知ってて」
そうイズに打ち明けて、ヒスイは照れ笑いをした。
「あ、ごめん。ノロケだったかな」
「・・・コハク幸せ。ヒスイいて。前よりずっと」
イズは微笑んだ。
優しさが溢れるイズの笑顔・・・。
「お兄ちゃんの言ったとおり、“いいヤツ”だね。イズは」



(・・・お兄ちゃんの後ろ姿・・・好き・・・)
ラリマーの神殿に帰る途中の雲の上でヒスイは思った。
今日もコハクに送られ、帰路につく。
(何もしない夜・・・でも楽しかったなぁ。お兄ちゃんとイズのやり取りが可笑しいんだもん)
ヒスイは思い出し笑いをした。
(お兄ちゃんってどこへ行ってもたくましく生きていけるタイプよね)
コハクの神殿を見て思った。
(お兄ちゃんと一緒なら、何処へ行っても、何をしても楽しい。だけど・・・)

一抹の不安。

(体に触っちゃダメ。の次は何だろう・・・。話しちゃダメとか?)
それならまだいい。
(会わせてもらえなくなったら・・・どうしよう。私もお兄ちゃんもこのままずっとラリマーの言いなりなのかな・・・。私がラリマーの魔石である限り)
「・・・大丈夫だよ」
コハクはヒスイに背中を向けたまま言った。
「・・・なんでわかっちゃうのかなぁ・・・」
今、一番欲しい言葉。
「だから無茶しないでね」
「・・・何でもお見通しなのね」
ヒスイはラリマーの言いつけを破ろうとしていた。
もし言われたとおりにしなかったら、どうなるか試してみようと決意を固めたところだった。
「ヒスイの体には魔法がかけられてる。ラリマーの目を盗むことはできないよ」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「・・・ヒスイの太もも」
「えっ?」
「夕べ帰ってから、確認されなかった?ケルビムに」
「・・・された」
(お兄ちゃんの印があるかどうか。見せろって言われて・・・)
「あそこにラリマーからのメッセージがあってね」
「え・・・?」
ヒスイは目を凝らして自分の腿を見た。
コハクのキスマークに混じって薄く縦に文字が浮き出していた。
「これって・・・天使語?何て書いてあるの・・・?」
「・・・魔法がかかっています。ご注意を」
「・・・・・・」
(ラリマーはこれをお兄ちゃんに見せるためにあんなこと言ったんだ。お兄ちゃんが見たことの証として印をつけてもらってこい、っていう意味だったのね・・・)
「自動判別魔法でね、ラリマーが直接ヒスイを見張ってる訳じゃなくて、ある条件の下でのみ発動する仕組みになってるんだ」
コハクが説明を始めた。
「ケルビムが設定した発動条件・・・それにさえ引っかからなければ、つまりは何をしてもいいわけで・・・」
コホン。とコハクは咳払いした。
「あ・・・」

“大丈夫・・・これくらいはおまけしてくれる・・・”

(そういうこと・・・だったんだ・・・)
昨晩コハクにされたことを思い出してヒスイは赤面した。
俯いていて、新たなコハクの企みに気付かない。
(・・・このまま大人しく帰すものか・・・)
コハクは別れ際になって我慢の限界がきた。
どんなカタチでもいいからヒスイに触れたい。
「だから、例えばこんな風に・・・」
コハクは呪文を唱えた。
足元からパキパキと音をたてて、空へ向けて伸びたもの・・それは氷の板だった。
一般のドアぐらいの大きさで、驚くほど薄く透き通っている。
「硝子みたい・・・」
ヒスイは見とれた。
「そう」
コハクは氷を挟んで反対側に立った。
「お兄ちゃんが良く見える・・・」
ヒスイは指を伸ばした。
コハクも同じように指で氷に軽く触れた。
「これを介して触れ合う分には発動しないから」
二人は指先を合わせた。

そしてキス・・・。

(・・・不思議・・・氷に触れてるはずなのに・・・あたたかい・・・)
「ん?あたたかい・・・?」
ヒスイはぱっと目を開けた。
コハクも同じことを思ったらしく、ほぼ同時に目を開けた。
(・・・しまった!!)
氷の一部が溶けている。
ちょうど二人の唇が触れていた場所だった。
(透明度を極限まで引き上げたせいで、すごく溶けやすくなってるんだ!ヒスイとキスするのに夢中になってすっかり忘れてた・・・!!)
「さわっ・・・ちゃった・・・」
ヒスイが自分の唇を押さえて言った。
「ヒスイっ!!」
ヒスイはその瞬間パッとコハクの前から姿を消した。
「まずいなぁ〜・・・。やっちゃった・・・」
失敗もいいところだ。
コハクは自分の馬鹿さ加減に呆れ、情けない声を出しながら、金色に輝く翼を広げ、飛び立った。
一路ラリマーの神殿を目指す・・・。



「・・・おや。珍しいお客さんだ。あなたがここを訪れるのは何百年ぶりですかね」
ラリマーはこれ見よがしに魔石・翡翠を手にしている。
「ヒスイを・・・元に戻せ」
「わずか三日でアウトとは・・・」
小馬鹿にしたような口調。
「あなた本当に頭が悪くなりましたね」
「・・・・・・」
その通りだ!文句あるか!と逆ギレしそうなところを押さえて、コハクは口を噤んだ。
ラリマーはコハクの方を見たまま、翡翠にキスをした。明らかに挑発している。
「禁を犯すとしばらくは外に出られません。可哀想ですが」
[・・・わかった。君に従う]
その言葉の後には“その代わりヒスイを外に出せ”と続く・・・。
[・・・何を望む?君の望みを言ってみろ]
[ですから・・・]
ラリマーは完全に勝者の顔つきになっている。
[僕とヒスイの間に子供はできない。君だってそれくらいわかっているだろう。神を造り出すなど・・・不可能だ]
[ええ。そうですね]
[・・・目的はなんだ。僕にどうしろと?]
[・・・・・・]
ラリマーがコハクの耳元で手短に説いた。
[・・・そういうこと・・・か]
コハクは横目でラリマーを睨んだ。
[そういうことです・・・まずは、あなたのお手並み拝見といきましょう]





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