「・・・ニキス」
「・・・オニキス」
メノウの声がする。
(・・・いや・・・これは・・・)


「・・・ヒスイ」


オニキスは浅い眠りから目を覚ました。
メノウが上から覗き込んでいる。
その“中身”はヒスイだ。


「謝らなくちゃいけないことがあってきたの」
ヒスイが言った。
「私、これから聖水飲むから」
悪魔にとっての聖水は毒薬と一緒だ。それを飲むというのは自殺行為に他ならない。
「・・・何だと?」
オニキスはどうにも解せないという目でヒスイを見た。
「お兄ちゃんを説得するのに体を張ることにしたの」
ヒスイの言うことは意味がわからない。
オニキスは溜息をついた。
「もっとわかるように説明しろ」
「・・・だから・・・ラリマーが言うには・・・で・・・」
ヒスイはラリマーに耳打ちされたことをオニキスに打ち明けた。
オニキスは腕を組み、黙って聞いている。
「・・・ならば・・・もしコハクがそれに失敗すれば・・・」
「しないわ」
最悪の可能性をヒスイがきっぱり否定する。
「私は死なない。だからオニキスも死なない」
「・・・・・・」
「だけど、そうは言っても、私ひとりの命じゃないから・・・一応、断っておこうと思って」


“私ひとりの命じゃない”


ヒスイの口から出たその言葉に、鳴るはずのない胸が鳴る。
「・・・ヒスイ」
メノウの体と知りつつも、抱き締めずにはいられない。
「ごめんね。私・・・オニキスを酷い目に合わせてばかりいる」
オニキスの腕の中で苦笑いするヒスイ。
「だから・・・嫌いになってもいいよ」
相変わらず残酷なことを言う。
「・・・なれるか。馬鹿」
オニキスはヒスイから離れた。もう溜息しかでない。
「・・・好きにしろ。いざとなったら一緒に死んでやる」
「・・・ありがと」
メノウの顔でヒスイが笑った。




「ただいま」
コハクは本当に“何もなかった”という顔で、日付の変わるほんの少し前にヒスイの元へ帰ってきた。
いつもこれに騙されていた。
何の疑問も抱かなかった。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
ヒスイが下を向いて黙り込んでいるのを見て、コハクはまず謝った。
「大変だったの?」
「え?」
「今日の“お仕事”」
「別に?ちょっと道に迷っちゃって遅くなっただけだよ」
「・・・嘘つき」
「え・・・?」
ヒスイは顔を上げた。
美しい。
コハクは嘘を見破られたことと、凜としたヒスイの表情にどきっとした。
「・・・でも好き」
ポケットから例の瓶を取り出す。
「?何?それ。栄養ドリンク??」
ヒスイは黙って笑うと、瓶の蓋を開け、ごくりと一息で飲み干した。
「・・・う・・・」

ゴトッ。

鈍い音をたてて、瓶が床に落ちる。
(・・・飲んでから半日はもつって言ったけど・・・結構・・・くるわね・・・)
すでに体が痺れている。
ラリマーが用意した聖水は純度が高い。普通の聖水とはわけが違う。
「ヒスイ!!?」
コハクはふらつくヒスイを抱き留め、床に落ちている瓶を拾った。
顔を近づけると濃厚な聖水の匂いがした。
(!!やられた・・・)
コハクはラリマーにハメられたことに気付いた。
だが今はそんなことを言ってはいられない。
何よりも大切なヒスイが腕のなかで苦しんでいる。
「・・・平気。半日は・・・死なないから・・・」
「どうしてこんなこと・・・」
コハクは明らかに動揺している。
こんなコハクは今まで見たことがない。
「・・・して・・・。お兄ちゃん・・・」
「・・・・・・」
「私・・・お兄ちゃんと同じ・・・生き物に・・・なる。そうすれば・・・こんなの毒じゃない・・・」
ラリマーにそう言われた。
「・・・・・・」
「・・・苦しいよ・・・。お兄ちゃん・・・助けて・・・」
(・・・やるしか、ないのか・・・)
コハクはヒスイを連れて飛んだ。

神の神殿と呼ばれる場所へ――



他と同じ円形の神殿。
フロア全体に魔法陣が描かれている。
その中心にあるのは大きな天蓋つきのベッドだった。
真っ赤なベロアのカーテンが天蓋を支える柱に結びつけられている。
他には何もない。
コハクはヒスイをベッドに寝かせた。
苦しそうにしてはいるが、まだ意識はある。
「・・・これはね、裏切りなんだ。メノウ様、サンゴ様、カーネリアンさん・・・そしてオニキス。これまでヒスイを愛してくれた人達に対する裏切り・・・」
そう説明しながら服を脱がせる。
(・・・そうかも・・・しれない・・・)
吸血鬼であることをやめ、天使になろうとするなど、背徳行為だ。
「わかってる・・・。でも私・・・この世界のすべてを裏切ることになっても・・・お兄ちゃんと生きたい」
「ヒスイ・・・」


(愛しい、愛しい、僕のヒスイ・・・愛してくれてありがとう)


コハクは瞳を伏せた。
「・・・ごめんね。痛いよ?」
「いいよ。お兄ちゃんのくれる痛みなら」


二人は裸になって抱き合った。
「・・・ヒスイとこういう関係になってから、少しづつ体を造り替えてたんだ。内側から・・・」
「・・・うん」
それは薄々感じていた。
「今まで黙ってて・・・ごめんね」
「いい。お兄ちゃんのすることなら、少しも嫌じゃないよ・・・」
内側から“天使”に侵されて、体の構造が変わろうとヒスイにとっては何の問題もないことだった。
「・・・ヒスイのね、ここに種があるんだ」
コハクがヒスイの背中を指でなぞり、唇を這わせる。
「種・・・?」
「そう。ヒスイも持ってるんだ。羽根を。その種だよ」
同族のカーネリアンも以前そんなことを言っていた。
「あと100年もしたら生えてくるはずなんだけど・・・」
コハクの指が止まる。
「僕のしようとしていることは、この種を消滅させて、新しい種を植えること・・・そうすれば、ヒスイの体を占める“天使”の部分の割合が飛躍的に伸びるから・・・」
「魔石じゃなくてもここで暮らせる・・・?」
「・・・うん。魔石でいる必要はなくなる」
ヒスイは儚く微笑んだ。
自分で思っていた以上に聖水のまわりが早い。
「僕の遺伝子から羽根の情報だけを取り出して、ヒスイの体に定着させるんだ・・・だから・・・やることはいつもと変わらないんだけど・・・たぶん、痛い」
「うん」


「・・・いい?」
「うん・・・」
「・・・痛かったら、噛みついても、爪立ててもいいから・・・少しの間、我慢して・・・」
少しの間、といっても3時間はかかる。
ヒスイと繋がったまま3時間、一言も間違わずに呪文を唱えなければならない。
「もう引き返せない・・・どんなにヒスイが痛がっても続けるしかないんだ」
そうしなければヒスイの命はない。
「ごめんね、嫌いにならないでね。僕のこと」
「ならないよ。絶対」
二人は約束のキスをした。
「・・・後で紅茶入れてね」
「うん」


「んっ・・・」


いつもの場所にコハクが入ってくる。
快感に浸る間もなく呪文の詠唱が始まった。
「・・・ぅ・・・・いた・・・」

痛い。

本当に痛い。

背中が焼かれるように痛む。

体の内側を何かに探られて、背中にあるという種が握りつぶされる・・・そんな痛みだった。

「あ・・・ぁぁ・・・うぅ・・・」
あまりの痛みにじっとしていられない。
ヒスイは泣きながら体を揺さぶった。
「・・・・・・」
コハクは呪文を唱えている。
励ましの言葉をかけてやることもできない。
代わりに悶えるヒスイの体を強く抱き締めた。

(・・・痛い。痛い。痛い)

ヒスイのなかにはもうそれしかない。
しかしそんな時でさえ、脳裏を掠めるのは他の誰でもない兄の顔だ。
「お・・・に・・・ちゃん・・・」


「あっ・・・うっ・・・」


ヒスイは体をビクッとさせた。
いつもと少し違うものがヒスイのなかに流れ込んでくる。
しかしそれは温かく、痛みもなく、ヒスイの心と体を安心させた。
「・・・終わったよ・・・」
お疲れ様、と、コハクがヒスイを撫でる。
コハクの体にはヒスイの爪痕や掻き傷が無数に残っていたが、それでも3時間気を失わず、痛みに耐えたヒスイを心から褒めてやりたかった。

次の瞬間・・・。

「あ・・・っ・・・」
背中の皮を突き破って、小鳥のような羽根がヒスイに生えた。
ヒスイはついに気を失ってしまった。
コハクと同じ金色の小さな羽根はまだ薄い膜が張っている。
血に染まりしぼんでいる生まれたての羽根。
コハクはその血と薄膜を、舌で丁寧に舐めとった。

悦びと愛おしさで舌鼓をうちながら。



「ん〜と、どれどれ・・・」
意識のないヒスイの向きを変え、視線を背中から顔に移す・・・。
そしてヒスイの口に指を入れて歯を探った。
「あ。あった」
ヒスイにはまだ牙が残っていた。
「よかったぁ〜・・・。こっち寄りになりすぎて抜け落ちちゃったらどうしようかと思ってたんだよね」
心底ほっとした顔をするコハク。
(加減が難しくて・・・上手くいくかどうか心配だったんだけど・・・ホント良かった・・・)
「これなら吸血意欲もなくならないハズ・・・これからもずっと僕の血を飲んで・・・ペロペロしてね」
(吸血天使かぁ・・・うん。悪くないぞ)
ムフフ・・・と、コハクは思わずにやけた。
それから大きな欠伸をした。
「僕も少し寝よう・・・さすがにちょっと・・・疲れ・・・た・・・」
コハクはヒスイの隣に倒れ込んで眠りについた。



二人は身を寄せ合って眠り続けた。
まる一日経った翌日の朝、ヒスイが先に目を覚ました。
暖かい日の光が差し込む静かな朝だった。
(お兄ちゃん・・・まだ寝てる・・・)
まどろみながらくすりと笑う。
(毎日一緒に寝てるけど、いつも私が先に寝て、お兄ちゃんが先に起きるから・・・)
天界にきてから一度もコハクの寝顔を見ていない。
(貴重なのよね。お兄ちゃんの寝顔って。よく見ておこう)
無防備なコハクの寝顔。規則正しい寝息まで聞こえる。
(いいなぁ・・・こういうのも)
ヒスイは自分の背中に生えた羽根のことをすっかり忘れている。
育ての親に似るものなのか、ヒスイもかなり懲りない性格だった。
飽きもせずコハクに胸をときめかせる。
(お兄ちゃん・・・大好き)
ぴったりとコハクにくっついてヒスイはまた眠ってしまった。



「おはよう。ヒスイ」
次に目を覚ました時はもう昼だった。
コハクはランチの準備をしている。
「あれれ?」
気が付けばコハクの神殿。いつものベッド。
ちゃんとパジャマまで着ている。
「夢・・・?」
「じゃないよ」
ヒスイはパジャマの上着を脱いで、鏡越しに自分の背中を見た。
「わ・・・かわいい羽根」
「気に入ってくれた?」
「うん!」
小さいながらもコハクとお揃いの羽根。ヒスイは嬉しかった。
犬の尻尾のようにヒスイの羽根がパタパタと喜びを表わす。
コハクは笑った。
そしていつものように心の中で叫んだ。
(かっ・・・可愛いぃぃ〜!!!)





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