それは、ヒスイのくしゃみだった。
木と木の間。
両手で口を押さえて立っている。
その上から更にコハクが抱きしめて、手を重ねているが、出てしまったものは戻せない。
「あ・・・ごめんね」
上からヒスイに被さったコハクが、精一杯の笑顔で誤魔化そうとしても、手遅れだった。
即効性のある催眠術は解くのも簡単で、手を叩く音やくしゃみですぐ正気を取り戻すのだった。
シンジュの動きがピタリと止まる。
「ん・・・私は・・・何を・・・え?」
目前に、妻の性器。
「う・・・うわぁぁぁ!!」
飛び退くシンジュ。
「あなたは一体何を!!!」
口内に残る生々しい味と食感に咽せる。
「ヒトの心を操ってこんな事をさせるなんて!!最低ですよっ!!」
シンジュは涙目で走り去った。
「どうしよう、おにいちゃん」
「とにかく僕がシンジュを追うから。ヒスイはここに残って」
こそこそと小声の相談をして、離れる。
「うん、わかった」
ちぅ〜っ。
こんな時でもお別れのキスは忘れない。
「・・・・・・」
ある意味でシンジュを泣かせることには慣れていた。
ローズは取り乱すことなく脚を閉じて立ち上がった。
「あの・・・ローズ・・・ごめん・・・」
思い返せば邪魔ばかり。ヒスイはすまなそうにローズを見上げた。
「・・・もう、いいです」
さっきまで自分も覗いていたという後ろめたさから、怒ることもできず、人前でボロクソに言われたのも恥ずかしい。
じんわりと悲しいものが浸透して、いつもの元気が出てこない。
「・・・ヒスイ様、少しその辺歩きませんか?」
早くこの場を離れて、気持ちを切り替えたかった。
ヒスイも素直に応じた。
「うん。いいよ」
宛てもなく歩いた先に広がる風景。
「ねぇ、見て!ローズ」
ヒスイが歓喜の声をあげた。
月を映した円形の泉。
高台にある為、見晴らしも良く、空が近く感じる。
鬱蒼と茂った森から抜け出た開放感のある場所だった。
こんなに素敵な所があったのかと、ローズも驚く。
精霊の森には何度も来ているのに、シンジュに連れてきてもらった記憶もない。
夏の終わり。まだ汗ばむ陽気だった。
「ちょうどいいわ」
人前で裸になることに抵抗がないヒスイが早速服を脱ぎ始める。
「ヒスイ様・・・もう少し周囲を警戒した方が・・・」
さすがにローズは慎重だ。
「ここは精霊の森よ?ヒトを襲う獣なんて、いるわけないじゃない」
と、ヒスイは全く耳を貸さない。
「ローズもどう?気持ちいいよ?」
「いえ、私は・・・」
断りかけたところでヒスイが言いにくそうに呟いた。
「アレ、ちゃんと流したほうがいいと思うけど・・・」
「・・・・・・」
(そういえば見られてたんだっけ・・・)
とんだ醜態。メイド時代なら耐えられないバツの悪さだった。
「・・・では、ご一緒させていただきます」
(やっぱり綺麗だなぁ・・・胸は相変わらず小さいけど)
心地よい冷たさの泉に浸かり、ヒスイを見る。
ヒスイがモルダバイトに嫁いできたばかりの頃、よく湯浴みをさせたことを思い出す。
態度が悪く、他のメイドでは手に負えなかったヒスイ。
いつの間にかローズが専任の世話係になっていたのだ。
そんな相手と肩を並べていることに苦笑いしながら、ポツリ。
「・・・いいなぁ・・・ヒスイ様のところは」
元来、他人を羨む性分ではない。
それでもこの時ばかりはそう思わずにはいられなかった。
「う〜ん・・・相手によってこうも違うものなのね・・・」
ヒスイが真顔で唸る。
「・・・・・・」
(こんなに恵まれたコもそういないわね)
産んだ子供はオニキス様に押し付けて。
何の苦労もせず、悠々自適。
いつも誰かに想われて。守られて。
(普通なら、こんなコ嫌いなんだけど)
「・・・嫌いじゃないのよね」
シンジュといい、ヒスイといい、一癖あるタイプに好感を抱く変わった趣味があるようだ。
「ローズ・・・?」
自分からよく話すローズが大人しかったので、やっぱり怒っているのかと、ヒスイが不安顔で覗き込む。
裸同士だからか、なんとなく打ち解けた気持ちになって。
ローズはシンジュにも話したことがなかった思いを口にした。
「・・・私ね、夢があるんです」
「夢?」
「ラブラドライトを、精霊の国に」
「精霊の・・・国?」
「はい。自分の娘が半精霊だから、って訳じゃないですけど。もっといてもいいと思うんです」
「精霊と人間のカップルが、ってこと?」
「契約して主従になるのではなくて、愛情で結ばれるのもいいんじゃないかな〜なんて」
そこまで言って急に恥ずかしくなる。
自分でも、柄にもないと思うのだ。
「・・・昔はね、地上の空気が汚れていたから、天使や精霊は契約なしに留まれなかったの」
ヒスイは夜空を見上げて語った。意外なほど真面目な顔だった。
「でも、今は違うよ。光の雨が降ったから」
「ええ、そうですね。シンジュから聞きました」
ローズが相槌を打つ。
「コハクさんが天界と引き替えに地上の空気を浄化して、精霊も契約なしに森の外へ出られるようになったと」
「うん。その割には外で見かけないと思わない?」
「だからなんです。精霊達はキッカケが掴めないでいるんじゃないかって。ラブラドライトが第一の交流の場になって、少しでも私達人間に興味を持って貰えれば・・・」
「そのためにどうするの?」
鋭いヒスイの質問が飛ぶ。
「精霊はプライドが高くて、人間に偏見を持っているから・・・難しいわね」
(さっきまでアンアン言ってたくせに・・・)
その口から出る言葉は厳しい。
「コハクさんみたいに“世界”を変えることなんて私にはできませんが、自分の“国”を精霊の住み易いように変えることはできると思うんです」
「人間と精霊かぁ・・・そんな国があったら、面白いかも」
「普通に人間の男と結婚していたら、他種族のことなんて考えもしなかったと思いますけどね」
「他種族同士のカップルが多くなれば、それだけ考えるヒトが増えるってことだもんね。種族間の円満にいいかもしれないわ」
納得したヒスイが頷く。
「結局“愛”なんですよね。世界を繋いでいるのは」
ローズが恥ずかしげもなく堂々と愛を語ったので、ヒスイは笑った。
「うん。“愛”だね」
一方・・・
「最低なのは君のほうだ。アレじゃ浮気されても文句は言えないね」
コハクはすぐシンジュに追いつき、そう断言した。
キッと睨んで、シンジュが反論する。
「ローズが浮気などするはずがないでしょう」
「その自信はどこからくるの?“愛してる”と彼女がいつも言ってくれるからでしょ?君は、同じ言葉を彼女に返してる?」
「そんなことわざわざ言わなくとも・・・」
自分なりにではあるが、ローズの愛には応えているつもりなのだ。
「だめだなぁ〜・・・君は考えが古い」
「余計なお世話です」
「ハッキリ言わせてもらうけど、シンジュ、君は男としての役目を全く果たしていない」
「あなたのように舐め回せばいいとでも?」
「舐め回せば・・・って・・・あのね・・・」
息を吐いてコハクが髪を掻き上げる。
「セックスの方法のことを言ってるんじゃない。気持ちをどう伝えるかの問題で」
「・・・・・・」
「君はローズさんをどれだけ笑顔にしてあげた?最近の笑顔を思い出せる?」
「・・・・・・」
次々と投げかけられる疑問符。
畳み掛けるようにコハクに諭され、閉口するシンジュ。
沈黙の時間が流れて・・・
「ぷっ・・・まさか君とこんな話をすることになるとはね」
コハクが吹き出して、場が和む。
かつては共に戦った仲。
シンジュも段々と可笑しくなってきたようで、ふっと表情が和らいだ。
「あなたには敵いませんね」
「シンジュ、ひとつ極意を教えてあげる」
「何ですか」
『どうしていいかわからないなら、とにかく自分からキスをしてみるといい』
「ヒスイ様、髪、洗いましょうか?」
メイド時代の癖。
・・・では、なかった。確固たる下心から出た言葉だ。
(ヒスイ様には懸賞金が掛けられてるのよね)
王妃代役のメノウも、オニキスに双子が預けられたと同時に姿を消した。
3年経った今でもモルダバイト王妃の失踪騒ぎは続いている。
大臣達が王妃に、王妃の情報に、巨額の懸賞金を掛けたのだ。
(オニキス様は大臣達の気の済むようにと、この件に関してはノータッチなのよね)
と、言うことは。
ローズが情報提供者となってもバレる心配はない。
ちらっ。
(どさくさ紛れにヒスイ様の銀髪を毟って、モルダバイトに持ち込めば・・・)
相当な金になる。
美しいヒスイ。金ヅルだと思うと益々輝いて見えた。
(お金が手に入ったら・・・業者に頼んで城の雨漏りの修理をするわ!!)
我ながら健気な使い道。
「これだけ恵まれてるんだから・・・ちょっとぐらい・・・」
「ローズ?何か言った?」
「いいえ、何でも」
決意を固めて手を伸ばす。
「髪はお兄ちゃんに洗ってもらうからいい」と断られても、意志は曲げない。
「!?ローズ!!あれ!!」
「え・・・?」
ヒスイの髪を掴む寸前のところだった。
「スレイプニルよ!!」
「先に我々でスレイプニルを捕まえてしまいませんか?」
ヒスイを探してウロウロしているコハクに、シンジュが言った。
「え、でもヒスイが・・・」
心配性はシンジュのほうなのに、ヒスイに関してはコハクのほうが過保護だ。
「大丈夫ですよ。ローズと一緒なら精霊に危害を加えられることはありません。まかりなりとも私の妻です」
「う〜ん・・・そうは言ってもねぇ・・・」
さっきまでの雄弁はどこへやら、言葉を濁すコハク。
「いつも腕に囲ってないで、たまには自由にさせたらどうですか。だいたいあなたは・・・」
シンジュの得意なお説教が始まりそうな雰囲気だった。
「わかったよ。君がそこまで言うんなら・・・」
早々に回避するのが後々の為だと判断し、コハクはそう返事をした。
「シンジュ・・・ひょっとして・・・焦ってる?」
「何がですか」
ツンとした横顔に微かな動揺。
「プレナちゃん?」
コハクはくすくすと笑って、シンジュを覗き込んだ。
「預けて来てるんでしょ?気になるよねぇ?」
「・・・あの子は私がいないと・・・」
「子煩悩なのは結構だけど、奥さんも大切にしなきゃだめだよ?」
「・・・わかってますよ」
引き続きコハクとシンジュ。
「あれ?」
「え・・・?」
洞窟を抜けたのはいいが、本来住処である場所にスレイプニルがいない。
「一頭もいないなんて、変だな」
「そうですね」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「何か・・・忘れてる気がしない?」
「・・・します」
「今、何月だっけ?」
「8月です・・・」
コハクもシンジュも思い当たったことがあるらしく、きまりが悪そうに頭を掻いた。
「あ〜・・・ひょっとして繁殖期?百年に一度っていう・・・」
「どうやらそのようですね」
「スレイプニルは賢い馬だけど、この時期は凄く気性が荒くなるから。無傷で捉えられるかどうか・・・。それよりもどこに行ってしまったかのほうが問題かな」
「たぶん・・・水場の近くだと思います。高台に泉があって、そこはよく幻獣達が利用するので・・・」
他国のスレイプニルも集まる“お見合いスポット”なのだと言う。
「・・・嫌な予感がする」
「私もです」
「急ごう」
「そうですね」
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