オニキスの視界に広がったのは水没した森だった。
ダムの底に沈んだ森・・・という感じで。
どこまでも、深い。
闇の精霊の棲む塔は辛うじて最上階が水上に覗いていたが、そこまでの距離はかなりある。
泳いでいくにしても、到底息の続く距離ではなかった。

(いや・・・待て)

改めて自分の構造を考えてみる。
(心臓がないということは、息をしなくても良いのではないか)
ヒスイの眷族で、不死身のオニキス。
(ヒスイさえ呼吸をしていれば、酸欠に陥る事はないだろう)
この時代の精霊の森が何故水の中なのか。
「コハクは何も言っていなかったが・・・」
今はそれどころではなかった。
オニキスは水の中の森へと身を沈めた。
侵入者ではあるが精霊達の抵抗を受けることもなく・・・


闇の塔。


昼夜問わず、塔の中に充満している“闇”は最高位の精霊ボージの配下、下級精霊である。


「闇の精霊よ・・・汝との契約を望む。姿を現せ」


円形の塔の最上階。微かに空気が動いた。
黒く艶めく滑らかな四肢。
漆黒の豹が現れた。
これぞまさしく闇の精霊ボージの姿だった。
「・・・驚かないのね」
「お前の事はよく知っている」
「知っている?」
ゆらり・・・と、黒豹の尻尾が揺れた。
獣でも女らしい話し方をする。
闇の中で金色に光る眼がじっとオニキスを見据えていた。
「・・・契約を望む者。我に力を示せ」
「・・・いいだろう」




同じく過去。智天使の神殿。

「さて・・・行ってこようかな」
「セラフィム!?待ってください」
黙示録は力づくで奪う事にした。
魔剣と共に歩き出したコハクをラリマーが止める。
「あまり時間がないんだ」
「私にも協力させてください」
「ヒスイを保護してくれるだけで充分だよ。君が黙示録に絡んだら、すぐに感づかれてしまう」
(わざわざ隠すまでもなく、僕等がここにいる事はバレてるだろうな)
「もっとあなたの力になりたい。私にできることがあれば何でも・・・」
妙なところで強情なラリマーがコハクの前に立ちはだかった。
「・・・・・・」


戦わずして黙示録を奪う方法。


「そうだな・・・君に頼むとすれば・・・」
柄にもなく平和的思考を巡らせる。
「“僕”が死なない程度に一服盛るとか」
「あなたには毒など効かない」
熾天使は美しく強靱な肉体を持つ天使なのだ。
毒物への耐性も半端ではない。
ただし・・・ヒスイの料理にはあっさりやられる。
(自分でもそれが不思議なんだけど・・・)
「じゃあ、お酒で酔わせるとか・・・」
この提案もラリマーに却下された。
「あなたが酔ったところなど見たことがない」
「・・・・・・」
自分の弱点を考えてみる。
“ヒスイ”しか思い浮かばない。
「セラフィムは・・・各地を飛び回っていて神殿にいる時間が少ない」
今、熾天使の神殿に行ってもすれ違いになるだけだと主張するラリマー。
言われてみれば確かにそうだ。
この時代、黙示録に代わり世界の浄化をしていた張本人なのだ。
(それなら・・・もう少しだけ・・・ヒスイの傍に・・・)
ラリマーの助言を聞き入れ、コハクは衝立の裏へと回った。



「おに〜ちゃん?」
いつもの第一声。
もう何十年と変わらず、朝一番にヒスイが口にする言葉だ。
ラリマーの治療を受けて、数時間。
ヒスイが目を覚ました。
「ヒスイ!調子はどう?」
「んっ!もう平気だよ」
「・・・お腹見せて」
「うん〜」
自分で服を捲り、お腹を見せるヒスイ。
傷口はもう跡形もなく消えていて、熱を出す気配もなかった。
「・・・痛い?」
「ううん。全然。わ・・・」
ベッドに乗り上げ、押し倒し、唇で元傷口・・・今は滑らかな白肌に触れる。
「怪我させて・・・ごめん・・・」
「お兄ちゃんのせいじゃないよ」


“現在”の状況、露知らず。


ベッドで、イチャイチャ。
また上から何かが降ってきてもおかしくないムードだ。
(ああ・・・ヒスイ・・・)
ヒスイの肌に直接触れている時間が何より一番好きだ。
傷も治り、すっかり元気になって。
(良かったぁ〜・・・)


吹き抜ける風が心地よかった。


「あれ?おにいちゃん?」
ヒスイに乗り掛かったまま、眠りに落ちるコハク。
「疲れてるんだ・・・そうよね」
ずっしりと腹部に感じるコハクの重み。
風になびく金髪を指先で弄んだりして、少しの間大人しく下敷きになっていたが・・・
「そうだ。ラリマーにお礼言わなきゃ・・・」
ベッドをコハクに明け渡し、ヒスイが立つ。が。


間が悪かった。


ラリマーの姿を探し、ふらふらと出て行った先に・・・コハク。
「・・・どういうコト?」
淡々とした口調でコハクが言った。
「気に入ったので、私の花嫁にしようかと・・・」
花嫁とは、本来性欲を持たない神直属の3天使が生涯只一人欲情する相手の事を言う。
ラリマーの苦しい言い訳だった。
もう一人のコハクを庇う為、ヒスイがここにいる理由をなんとか取り繕おうとしたのだが、鼻で笑われ。
「下手な芝居だ。その子、絶対君のタイプじゃないから」


衝立の裏側。


「ヒスイ・・・あ・・・あれ?」


伸ばした手が宙を掴む。
意識が夢の世界から戻ってきたところで、自分が眠っていた事に気付くコハク。
「ん!?」
すぐに聞き慣れた自分の声が耳についた。
(アイツ・・・もう来たのか!?)


ラリマーとヒスイ。そしてコハク。


3人の姿を影から確認。
飛び出すと即戦いになってしまう可能性があるので、とりあえず堪えて見守る。
「見たところ、キミが僕の花嫁らしいけど・・・こうしない?」
「?」
「もしキミが“過去”に残るって言うんなら、今すぐコレを燃やしてあげる」
と、コハクは言い、ヒスイの頭上に黙示録を掲げた。
「な・・・」
(何血迷った事言ってんだ!?)
過去の自分の言動が信じられない。


けれども。


(“花嫁”の威力ってすごいなぁ・・・)
図々しい態度にどれだけ腹が立っても、そう思わずにはいられなかった。
(この頃って、もっと腐ってたハズなのに・・・)
「コロっとイッちゃった訳だ」
熾天使の花嫁には過去も未来も関係なく。
(僕は僕だから、やっぱりヒスイの事、好きになっちゃうんだろうな)


「どう?」
黙示録片手にコハクが繰り返す。
ヒスイの答えは・・・


「やだ」


世界と己の運命が天秤に掛けられ、少しは迷うかと思いきや即答だった。
(よしっ!それでこそヒスイだ!!)
影でぐっ!と拳を握る、未来のコハク。
(ザマーミロ!)
過去の自分がフラれて喜ぶのもどうかと思うが。
「燃やすとか、そんな勝手な事して・・・神様から罰を与えられたりしないの?」
続いてヒスイの口からそんな質問が飛び出した。
智天使ラリマーと熾天使コハクが顔を見合わせる。
「・・・大丈夫だよ。いざとなったら神を殺・・・」
「セラフィム!!」
物騒な回答をするコハクをラリマーが諫める。
「心配はいりませんよ。罰があるなら私も一緒に受けます」
この場にはいない座天使トロウンズもきっとそう言うだろう、と。
「何だかんだで結局仲がいいのね」
暢気に・・・ヒスイが笑った。


(ヒスイ・・・)
「笑ってる場合じゃないんだけどね・・・」
そう言いつつ、衝立の裏のコハクも苦笑い。


さっき夢をみた。
僕は果てしない暗闇の中で。

“生”の意味も。
“死”の意味も。

わからなくなっていた。

そこに現れた、ひとつの光。

その光はヒスイなのだと心の何処かで思って。

何とか掴もうと手を伸ばしたところで目が覚めた。


夢の中では光に届かなかったけど。
現実は、違う。
(目が覚めて、ホッとした・・・)
闇の中の光。
きっと僕にとってヒスイはそうなんだ。
闇が深ければ深い程、その光は輝きを増して。
「・・・欲しいんだろうな。あげないけど」


衝立の向こう・・・緊張感を欠いたムードであるが、黙示録を巡る話し合いは決裂している。
残された手段はやはり強奪と考え、コハクは魔剣を手に取り、出てゆくタイミングを伺った。
(確実に仕留めるにはオニキスと合流した方がいい・・・)
「戦ってる間に来るかな・・・」
今になってオニキスの顔が浮かぶ。
「精霊の森かぁ」
(この頃行ったことないから、どうなってるかわからないけど)
噂では、各種精霊の力の均衡が崩れているとか・・・
話しておけば良かったと、後になって思う。
「まぁ、オニキスなら大丈夫か・・・精霊王が“番人”を定めるまで、あの地は不安定なんだよね」
一番勢力の強い精霊属性が反映される土地柄。
“現在”でもその名残で森の泉の水深は季節ごとに変わるのだった。



「・・・そろそろ出てくれば?」
コハクがコハクに指名を受ける。
「・・・ヒスイは抜きだよ?」
「勿論」





精霊の森にて。闇の試練。

オニキスは武器を持っていなかった。
暴力を嫌う精霊相手に必要ないという理由で。
泳ぎの邪魔にもなるからと森の入口に置いてきた。
コハクのように攻めの戦いはしない。
闇の精霊の攻撃を避けつつ、氷系の呪文で足場を凍らせ、今は・・・
黒豹の四肢を硬い氷で捉え、動きを完全に封じていた。
「これで気が済んだか」
実質オニキスの勝利。


『貴方は・・・何故“闇”を求めるの』


闇の精霊が尋ねた。
「・・・闇の中でしか見えないものがあるからだ」
オニキスはそう答えるなり、指先で空中に魔法文字を描いた。
滅多に使わない破壊系呪文。
壊したのは、塔の天井だった。
人間界の時刻は夜。太陽はもう見る影もない。
頭上には星屑の夜空が広がっていた。
「どうだ?美しい眺めだろう?」


闇の中でしか見えないもの。


それは、光。


自然に例えるなら。
星の光や、月の輝き。
夜になれば、昼には見えなかったものが見えてくるように。
「闇があるからこそ、見える光がある」
オニキスは、闇の精霊ボージーへと歩み寄り、その場で膝をついた。
「光を見つけるために、闇が必要だ。力を貸して欲しい」
四肢を束縛していた氷を砕き、黒豹を見上げる。
「・・・素敵な口説き文句ね」
黒豹は伸びをして体をほぐし、機嫌良く尻尾を揺らした。
「いいわ。契約を・・・私の名前は・・・」


「・・・ボージー」


オニキスが名を呼ぶ。
“現在”では失ってしまった精霊の名を。





「・・・いくぞ」
「ええ」
しなやかに。一人と一匹が歩き出す。
「それで?戦いの相手は?」


「・・・熾天使だ」






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